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2014.02.28 Friday | 18:45

アントワープの4人



「ワーッハッハッハッハ!」
「それじゃあヤチヨのプラハタハ賞の入賞を祝って――え、20回め? こういうのは何度やったっていいんだよ。かんぱーい!」
「クハハハ! これで我々のグループ内で、コンクールの入賞経験がない者はいなくなった。いや、よくやった山吹!」
「まあ、嬉しいけど」
「どうした山吹、飲んでいるか。今日は君の祝勝会だ。主役が飲まなければ始まらない」
「や、飲んでるけど」
「ほう、普段と同じ顔色をしながらよく言えるものだ。安物でも飲んでいるんじゃないか? どれ、俺が中身を確かめてやろう。クハーッハッハッハハ!」
「好きなだけ飲んで、どうぞ」
「では遠慮なく――麦茶だこれ!」
「おいおい、ヤチヨはこんな日までお淑やかに過ごすつもりじゃないよな? たまにはイオンで酒瓶を殴るくらい酔っ払っても罰は当たんないよ」
「そうだぞ、たまには弾けてみせろ。以前はテーブルの上で『おお牧場はみどり』を振り付きで熱唱したじゃないか」
「あなたたちが半ば強制的に歌わせたんでしょうが。生き恥を思いださせるな、馬鹿」
「クハハハ! この大蔵衣遠を指して馬鹿だと言える日本人も君くらいだろうよ!」
「や、鼻の穴にピーナッツ刺しながら、俺は馬鹿じゃないと言われても」
「おお本当だ! ハッハハ、これは一本取られた。俺にこのような真似をした馬鹿はどこのJPスタンレーだ、蹴り殺してやる」
「本気で怒るなよ。あまり鼻息を荒くすると――ピーナッツが抜けるぜ?」
「フン!」
「ピーナッツ痛い! なんて鼻息だ、まるで獣を狙う散弾銃のようだぜ……イオン、お前には鼻鉄砲の才能があるよ」
「ククク、いま一度味わってみるか? 全てを打ち砕くこの貫通力を」
「貫通させたいのか打ち砕きたいのかどっちかにしてよ」
「ふぐうっ!? 鼻鉄砲に拘るあまり、ピーナッツが鼻腔の奥へ詰まってしまった……助けてくれ!」
「あの、大蔵くん。いつになく弾けてるけど、今日はそんなに楽しいの?」
「ああ楽しいとも。評価されるべき人間の才能が、正しく認められたのだ。その相手が同郷の士とあれば、喜ばない理由はない」
「え、なにを素直に可愛いこと言ってるの。あなたホントに大蔵くん?」
「ああ、大蔵くんだとも。もっとも俺をそのように呼ぶのは、学院内でも君しか居ない。つまり今の俺の顔も、君の前でしか見せないということだ」
「何、ありがたくもないことを勿体つけて。はあ。今日は嬉しさをお腹の底に溜めつつ、しんみり飲もうと思ってたのに」
「山吹の! ちょっといいとこ見てみたい!」
「わかったから、大蔵くんの合コンみたいなノリやめて。すみません、この人と同じものをジョッキで」
「おっ、そろそろヤチヨもいくかい? ワインは我々に知恵と文明を与え、ビールは我々から知恵を奪い陽気な馬鹿にする。いいだろ、俺がいま考えた格言なんだ。ヤチヨも馬鹿になるといいよ」
「飲んだら誰でもあなたたちみたいな馬鹿になると思わないでね? 日本の女性には貞淑さが求められるって言うし」
「何を言っている山吹、我々は君を女だと思ったことなど一度もない! クハハハ!」
「すみません、やっぱりジョッキじゃなくて瓶でください。人を殴るので」
「俺はちゃんと女性だと思ってるよ。なんならこの後、ヤチヨの部屋へ行ってもいいかい?」
「おまえはこの前も今と同じ流れで山吹を誘い、その後はすっかり忘れて自分の部屋の風呂場で酒を飲み、挙句溺れかけて病院へ運ばれたじゃないか」
「やべ、そんなことすっかり忘れてた。てへぺろ☆」
「すみません、やっぱり瓶じゃなくてケースで。人を殺すので」



「大蔵くんの! ちょっといいとこ見てみたい!」
「クハハハ! 周りを見ろ山吹、ここは天下の公道だ、酒はない!」
「な、なんっ、わた、わたたっ、わたひの注いだものが飲めねってか!」
「なんだ? もう一軒回るか? いや……やめておこう。気分はいいが、これ以上は君が危ない」
「危ないって、自分で散々飲ませといて……んぶっ」
「おっと、苦しければ吐いてもいいが、ここではマズいな。山吹、一度座ろう。あのベンチまで行こう」
「ベンチに行けば酒があるってか!」
「いや、やはりベンチでは目立つな。そこの路地へ入ろう。吐くなら奥で吐け」
「はき、吐きはしないけどっ……んぶぶぶっ……」
「全て出してしまった方が楽だと思うがな。まあいい、まずは座れ。少し休め」
「んぐっ、う、うぅ、世界が歪んでる……漆黒の闇に浮かぶ紫色の雲が、私を包もうと空から降りてくる……」
「そんなに体を揺らして大丈夫か。いっそのこと横になればどうだ。頭だけはここへ載せろ」
「あ、あははっ、ひざ、ひざまくら! 大蔵くんがひざまくらって! おと、男の人のひざまくらなんて、初めてっ……!」
「こちらこそ初めてだ。ここまで飲んだくれた女を介抱するのも、こんな地べたへ直接尻をつけるのもな」
「ハッ、これだからお金持ちは。大蔵くんはお坊ちゃんなんだから」
「ああそうだ、俺は大蔵家の嫡男だ。だが今この場でそんなものは関係ない。この大蔵衣遠は君の同級生のいち日本人だ」
「いち日本人……?」
「そうだ。我々の学舎はそういう場所だ。身分や立場など言い訳にもならなかった。俺が求めた、才能さえあれば認められる世界だ。いつか未来の才能のため、俺もこういった教育機関をたてたいものだな」
「才能……」
「君もそう思うだろう? だからこそ、周りに味方などいない海外へ学びに来た。君が単身で渡白したのはそういった理由だろう?」
「大蔵くんは変わったねえ」
「ん?」
「大蔵くんはぁ、入学した時は、学院とか、故郷とか、そんなものも一緒くたにして敵視してたじゃない」
「そう見えたか」
「学院全体を見渡しても、日本人は私と大蔵くんしか居ないのに、初めて会話したのが半年経ってからって、その時点で異常じゃない。普通、留学先で同じ故郷の人間が居ると知ったら、程度の差はあれ仲良くはするでしょ」
「それは俺に限った話じゃないだろう。君も、自分からは話しかけてこなかったじゃないか」
「私は、入学してすぐの頃、別のクラスに日本人がいると聞いて、すぐ見に行ったよ」
「なぜその時に声を掛けなかった」
「だって明らかに近寄りがたい空気を醸しだしてたから。一人で本読んでるし、周りとも馴染んでないし、目付き悪いし、とても声を掛けられる空気じゃなかったの。ジャンに誘われて、一緒に衣装を作ってなかったら、今でも会話のないままだったと思う」
「だろうな」
「それも、出会った当初は、すごく感じ悪かった。人の仕事にケチ付けてくるし、偉そうだし、喋り方演技掛かってるし、なに考えてるかわからないし、今でもよくわからないし。プライド高いし、やたら勝ち負けに拘るし、自分のことしか考えてないし」
「ククク、散々な評価だ。だが否定はしないし、今でも何一つ変わらない。俺はこの学院で、自分が首席にならなければ意味がないと考えているし、その目標はジャンにも譲るつもりはない」
「そう、それは変わってない。でも今日は、私のことを祝福してくれたじゃない」
「同じ研究グループの仲間だ。全員に入賞経験があれば、所属するグループの格が上がる。それは俺自身の評価にも繋がる」
「今さら意地張らなくてもいいって。ジャンが最初に入賞した時は、自分の作品が落選して、ブスッとした顔で座ってたじゃない。自分が入賞した時ですら、この程度で浮かれている場合ではないとかなんとか言って、せっかくの打ち上げの場を盛り下げることしかしなかったのに。それが何、今日のアレは? 今日だけじゃなくて、前回も、その前も『あの』大蔵くんが手まで叩いて、大きな声で笑って」
「クク、修羅場を何度も共に潜りぬければ情も湧く」
「湧いてんじゃん。最初はそれすらなかったでしょ。馬鹿みたいに堅物だった大蔵くんが、今のグループの四人で打ち上げをする時は、普通の男の子みたいになってる」
「責めるような口調はよせ。わかった、その時だけは心を溶かし、愉しんでいることを認める。才能ある者と技術を肴に同等の夢を語りあい、その栄光を祝福する時間は至福だ」
「大蔵くんに認めさせてやった。教室で入賞の報告を受けた時と同じくらい嬉しいぜ、へへ」
「なんだそれは。友情と野望を同列に扱うな。今回、君が受けた祝福は、俺一人が才能を認めるよりも、遥かに価値の大きな栄光だ。もっと誇りを持て」
「友情。大蔵くんが友だちかあ、あはは」
「俺は人間の才能を尊敬する。以前からグループ内で実力を認められていた君が、しかし我々が入賞することで日陰の位置に甘んじ、それでも心折れることなく挑戦を続け、一年と半年の雌伏の時期を耐え、ようやく陽の目を浴びることができたんだ。俺自身が落選した悔しさはあるが、今はひとつの才能が世間に認められた喜びが勝る」
「嬉しいなあ。うん、一年半。そうだね、同じグループで、私だけだったもんね」
「その通りだ。君を我々の雑用係と罵ってきた学院の連中に、その手で強烈な一撃を叩きこんでやった。正直に言おう。俺は、嬉しい。俺もジャンも、一切の手抜きをしていないのだから、尚のこと感動を覚える。よくやった。君はよくやったんだ」
「何それ。酔ってるの? 私のことで、少し感傷が過ぎるよ」
「酔っている。我々全員がこの世界で成功するという夢に酔っている。いや、笑うな。俺が演技掛かった人間だというのは、君自身が言ったことだ。この程度の言葉なら、口にしそうなものだろう。だから笑うな」
「や、ごめん。でも、大蔵くんの言葉に笑ってるんじゃなくて。私ね、入賞の知らせを聞いた時は本当に嬉しかった。でも、大蔵くんやジャンと同じ一線に並べたことの方が、自分の中でよほど大きな事件の気がして」
「友情よりも栄光を誇れと言っているだろう」
「いいから聞いて。あなたたちは、もうとっくに院内で認められていて、私の目から見ても特別な位置にいる人たちなの。コンクールの審査員に認められるよりも、同世代の天才と呼べる人たちから認められたことの方が嬉しい。それが、なんだか、おかしかったから笑ったの」
「何を今さら。我々は一年も昔に実力を認めていた。君の番が巡ってきただけの話だ」
「私の番、かあ……」
「そしてもう次の番が迫っている。日本と違い、このベルギーから参加できるコンクールは幾つもある。次はオーストリアで規模の大きなコンクールがある。日本ではせいぜいが、半年に一度の挑戦だ。それを我々は何着もの衣装を並行して製作し、毎月のように応募している。俺たちの実力は、日本の学生のレベルをとうに超えて、今や世界に届く。卒業を迎えた時、きっと大きな栄光が待ちうけている」
「卒業を迎えた時」
「我々はその日まで、助け合いつつ競わなければいけない。共に歩もうじゃないか。見ているがいい。次のコンクールでは、君のデザインを抑えて、必ず俺が入賞してみせる――」
「私ね、来週、ううん、準備さえ出来れば、明日にでも日本へ帰らなくちゃいけないんだ」
「――なに?」
「両親がね、事故を起こしたの。相手に怪我を負わせて、自分たちも入院してる。慰謝料や、これから先の入院費、介護費を考えると、保険金と貯金だけじゃ足りなくて、今も数百万の借金を抱えているのだけど、家には中学生の妹しか居ないから、働けるのが私しか居なくて」
「なんだそれは」
「両親の様子を見に行くにも、日本にいた方が都合がいいから、今の学院を辞めて、帰ることに決めたの。幸い、事故を起こした相手の家が裕福で、少し特殊な仕事なのだけど、借金を返しながら、妹を学校へ通わせるだけのお給料を貰える勤め先を用意してくれるみたいで」
「なんという家だ」
「桜小路というお家。私はその家の使用人、メイドさんになるんだって。私に似合うかな、メイド服」
「それは……」
「大蔵くんのそんな顔、初めて見た。どれだけ時間に追い詰められても、困った顔をしたことがないのに」
「いや、問題ない。山吹、君に金が必要だと言うのなら俺が用立てしよう。両親の側にいられないのは不安かもしれないが、君の手で良い病院を探してやればいい」
「大蔵くんが?」
「君も充分に知っているだろうが、この俺は我が一家の経営に関わっている。大蔵家、いや、俺個人で使える金額からしても、君がいま困っている数百万という金額は端金に過ぎない」
「そうだね、大蔵くんにとってはそうなのかも」
「俺はこの先、大蔵グループの経営とは別に、あくまで個人の事業として、自分がデザイナーを務めるブランドの会社を設立するつもりだ。その為に必要な才能への投資は惜しまない。山吹、君は今回のコンクールで結果を示してみせた。ちょうどいいタイミングじゃないか。将来、我が社へ入ることを条件に、前金として君の一家の借金を肩代わりしよう」
「本気で言ってる?」
「無論だ。才能を愛する俺が、君を勧誘しない理由はない。それだけの価値があると考えているからこそ、金を出すと言っている。同情じゃあないぞ。才能に対する正当な評価だ」
「嬉しいなあ」
「喜んでばかりいられても困る。部下となる以上は、俺の言葉に従ってもらう。研鑽についてもそうだ。待遇に甘えて才能の錬磨を怠れば、俺は途中で君を見捨てるだろう。尤も、教師から鉄の意思を持っていると言われた俺ですら、自分が鉄ならば君の意思は鋼だと認めている。怠惰などという言葉は、君に無縁だと思うが」
「嬉しいなあ」
「全ては才能があった故だ。過去の努力を誇ればいい」
「嬉しいけど、それは出来ないなあ」
「なに?」
「ありがとう」
「何を言っている。君が断るはずはない」
「本当に、ありがたい話なのだけど」
「山吹、よく考えろ。家族の問題なのだろう? 君にとっては大きな金額のはずだ。それを助けると言っている。服飾の才能も生かせる。拒否する理由がない」
「お金のことは解決する方法があるから。働いて、稼ぐ。当然のことだよ」
「ならば誇りの問題か? 競っていた人間の下へ付くのが嫌か? それとも俺に金の貸し借りを作りたくないということだろうか? 山吹、これは意地を張るべき問題じゃない。合理的に考えろ」
「うん。この学院へ入ったばかりの時期か、まだ知りあっていなかった頃なら、割り切った関係でいられたかもね」
「やはり誇りの問題か。君の中で何が引っかかっている? 服飾の世界を捨ててまで張るべき意地とはなんだ? 君は正義を重んじる人ではあるが、現実を無視した選択をする人でもないだろう」
「大蔵くんこそ、正義や現実を超えた、絶対に譲らないものを一つ抱えて、それ以外のことには興味を示さない人だったでしょ」
「なに?」
「大蔵くんが変わったって言ったよね。あなたは最近になって私たちの前で笑うようになったし、以前はほとんど喋らなかった打ち上げの場でも、それこそ日本の学生のように、自分から楽しもうとするようになった」
「それは、言っただろう。喘ぐような苦しみを何度も分かちあえば、情だって湧く」
「湧きすぎ。出会った頃は、私に才能があっても、家庭の事情に助け舟を出す人ではなかったし、そもそも、そんな話を聞く人でもなかった。それに、才能があると言ってくれるけど、私と同程度に才能があって、面倒な事情を必要としない人は、この学院になら探せばいるわけだし」
「違う、面倒があるなら、むしろ望むところだ。その方が君という才能を従わせることが出来る」
「昔の大蔵くんなら、その言葉に違和感はないだろうね。でも今はそれ以外の……友人として、純粋な親切を含めて言ってくれてるように思える」
「それが事実だとして何の問題がある。君は俺を利用すればいい。俺も君を利用する。それでいいじゃないか」
「入学した頃の大蔵くんは、何か目的があって、それが服飾のことかはわからないけれど、とにかく踏みこんではいけないものを抱えているのが見てわかった」
「それは」
「だからこの学院でも一番にならなくちゃいけないんだと思う。でもそれが服飾だけに関することなら、私が入選したことを、あんなに楽しそうな態度で祝ってくれるはずがない。だから、ちょっと私には想像できない、なにか大きなものを抱えているんじゃないかと思ってる」
「だとしても、君はそれすらも利用すればいい。自分の都合として俺を使えばいいじゃないか」
「だから、以前ならね。でも今は、私を助けようとしてくれる友人でしょう? 今までだって助けてもらってた。この味方のいない、どころか人種が違うだけで実力を認められない、見てももらえない環境の中で、同じ日本人がいることで、しかもその人は心を挫けさせずに戦って、勝利しているのを見て、どれだけ勇気付けられたと思ってる?」
「それは、俺も同じだ。君は俺が興味を示さなかったと言った。しかし、同胞という存在が、近くにいるだけで、如何に心強いものであるかは、いま君が口にした通りだ。俺は君を無視していたんじゃない。君は個人として独立し、何者も頼らず、その足を地に下ろして立っていた。その誇り高さを尊敬している。だから干渉しなかった」
「嬉しい。私と大蔵くんは、同じ学院内にいるだけで、お互いを支えあえていたってことでしょう?」
「その通りだ。これは恥ずべきことじゃない。我々が弱い人間であるなら慣れ合いと蔑まれるだろうが、俺も君も結果を出した。日々切磋琢磨している。強者として正しい姿じゃないか。この関係を見える形で表に出しても、なんら恥じるべきところはない」
「本音で表に出してもいいと思ってる?」
「なに?」
「私を従えたことは、表向きになら才能を拾ったと言えるでしょう。だけど大蔵くんは、いま語ってくれたように、本心では私を助けたいという思いやりを込めてくれてる。それが誰にでも見える形で表へ出たとして、あなたが一番優先しなければいけないものの妨げにはならない?」
「それは……だが、しかし」
「大蔵くんは変わった。学院生活を心から楽しんでいるように見える。最初に会った時は、この学院の中に居ても別の目的を優先していた大蔵くんが、今は私たちと夢を語る時だけ、心から安息を覚えているように見える。もしかして、純粋に服飾生としての成功を楽しんでいるんじゃないかって」
「山吹。だがそれは、俺の事情だ」
「赤の他人ならあなたの事情なんて無視できる。だけど私は、今のあなたを大切な人だと思ってる。残り一週間しか時間のない中で、一度も鋏を入れていない生地を、お互いに一時間の仮眠を譲りあいながら仕上げて、その衣装があなたの作品として、この国のコンクールで認められたでしょう? あんな経験を重ねて、あなたの事情を無視できるはずがないじゃない」
「ならば俺が君を助けたい気持ちもわかるはずだ。君をこの学院へ引き止めたいと言っているんだ、わかるだろう! 俺の抱えているものは俺が戦うべき未来だ、君が関わるべきことじゃない」
「でも、ジャンは知っているんでしょう?」
「ジャンが? なぜ君がそれを知っている」
「だってあなたとジャンは、初めから親友だったじゃない。あなたは彼と話す時だけ、最近、ようやく私にも見せてくれるようになった顔を、最初からしていたじゃない」
「よく傍から見ているだけでわかるものだ。君は、常に、それほど俺のことを意識していたのか?」
「茶化して誤魔化そうとしない。そんな冗談を口にすること自体が、大蔵くんには珍しいんだから。動揺してるのが丸分かり」
「君はジャンから何かを聞いているのか? いや、あいつに限って話すはずがない。俺は奴を信頼している」
「そう。彼は、私たちの中でも飛び抜けて才能があるし、一個の存在としてとても強いと、誰が見ても理解できる。それならあなたが心を晒して接しても、弱点になるとは誰だって思わないでしょう。だけど私は、大蔵くんが何か抱えているのを知って、その助けになれないのを知りつつ、自分だけ助けられて平然としていられる図太さがない」
「君の家族の生活も懸かっているのだろう。割り切ることはできないのか」
「大蔵くんが、自分の事情とは自分が戦うと言ったように、私も自分の事情を解決するための方法は用意してるから、自分だけ甘えるつもりはない。だけど大蔵くんが、服飾の世界だけじゃなくて、あなたが一番に優先しなくてはいけないものとも一緒に戦って欲しいと言ってくれるなら、私も自分の事情に大蔵くんを巻きこむことができる」
「意地を張るのはよせ。己の才能で道を切り開いたと捉えればいいじゃないか。俺を頼れ。俺に従え。俺に寄りかかってしまえ」
「甘えないで。ちゃんと自分の抱えているものを私に打ち明けて」
「それは」
「大蔵くんのことだから、小さな野心というものではないんでしょう? 何が理由で、周りを拒絶して、そこまで自分に厳しくするのかを教えて」
「許せ」
「駄目なの?」
「心から口惜しい。俺がいま求められている秘事は、信頼できる友人であっても話せるものじゃない。たとえ肝胆相照らし、苦労を分かち合った仲間であっても、打ち明けることができない。この事実が世間へ漏れれば、俺の生きる意味が無くなるに等しい」
「あなたの実家に関わること?」
「そうだ。だがそれに君を関わらせるつもりはない。デザイナーとしての俺を支えてくれれば、それで良かった。君の目は正しい。俺はこの服飾の世界に希望を持った。だからその世界で友人と認めた君に、薄汚い世界で人を陥れる俺の姿を見せたくはないと考えている。君の知らない場所で、今も俺は同じ一家の人間を苦しめている」
「私は大蔵くんの言うとおり、正義を重んじる……ううん、口うるさい人間だから。あなたの事情を知らずに、手段を選ばないで泥々した世界と戦っている姿を見たら、自分の家庭の都合があっても、大蔵くんを止めようとするかもしれない」
「そうか……そうだな、それは考えていなかった。俺の浅はかさ故だ」
「ううん。私のことを想って、それもほとんど考える時間もなしに言ってくれたことだから。それ自体はすごく嬉しかった。服飾の才能を認められたのも嬉しかったけどね、大蔵くんに友人だと言ってもらえたことは、もっと嬉しかった」
「やはり君の才能は惜しい。割り切る努力をしてみればどうだ」
「できないなあ。私も大蔵くんを大切な友人だと思ってるから。一年と半年の間、ありがとう」
「いっそ金だけ受け取り、卒業後に約束を違えてしまえばいい。君は頭がいい、俺を騙す方法なら、一年以上の時間があれば思いつくだろう」
「優しいなあ。だけど私の知ってる大蔵くんは、そんな人じゃなかったなあ」
「愚かだ。俺すら利用できずに、その服飾の才能を埋もれさせる君は、本当に愚かな人間だ。君はもっと合理的に物事を考える人間だったはずだ」
「はいはい。大蔵くんは頭のいい人のまま、これからも何を考えてるかわからない人でいてね」
「何故もっと早く、君が学生を続けられる内から、我が社へスカウトをしておかなかったのか。自分の行動の遅さを悔やむ」
「まだ卒業もしてない内から部下になれだなんて、普通は言わないでしょう」
「いっそ俺の愛人にでもなったらどうだ」
「恋人すっ飛ばして愛人ってどういうことなの。ひとつ飛ばし恋愛にもほどがあるでしょ。まず真っ当に告白してよ。大蔵くんの真顔の告白なんて聞いてみたい」
「今は別の女を俺のものにしようとしている。許せ」
「うわ、最悪だ。この男最悪だ。いま本気で口説かれたら、もしかすると堕ちるかな程度のいい雰囲気だったのに、この段階で他の女の話とかないでしょ。ないない、今後、この男だけは絶対にない。その女にもフラれてしまえ」
「それでも俺は君の才能を愛しているよ」
「真実を知った今さら大蔵くんに愛されてもなー。あー悔しい。もういい、このまま勝ち逃げしてやる。今回のコンクールは、大蔵くんも応募してた中で私が入賞したからね」
「言われてみれば君の勝ち逃げということになるな。このままでは雪辱する機会がない」
「大蔵くんに言われた通り、今回の入賞は本当にタイミングが良かった。今までずっと日陰で我慢してた私が、ベルギーへ置きざりの大蔵くんに、一矢報いて日本へ帰れる」
「フン、ズルい女だ。なあ、もう一度勝負をするべきじゃないか? 次のコンクールに参加してから帰国すればどうだ」
「少しでも早く勤めはじめたいの。才能が枯れる前にお金を返すことが出来れば、また服飾の世界に関われるかもしれないでしょ。才能なんて若い内が花だし、花の命は短いって言うし」
「なるほど。いつかまたこの世界へ、か。わかった、俺はその日まで待とう。そしてその時までに我が野望を達成し、今度こそ君を俺の部下にしてやる」
「野望が達成してなくても、長い時間が経てば、私の感情は割り切った関係で居られるようになってるんじゃないかな。ま、大蔵くんの下で働く気があるかは別にして」
「どんなに忙しくても、鍛錬は怠るなよ。その才能を殺すな」
「どうだろうね? 勤め先がどんな家かもわからないし。その家が私を雇えなくなったりすれば、あんなにお給料の条件がいい勤め先も他にないだろうから、何個も仕事を掛け持ちしないといけなくなるし……それだと、服飾の勉強までしてる時間はなくなるかなあ」
「桜小路家と言ったな。あの家は新しい事業を始め、大蔵家からも寄付金を出していたはず……山吹への関与は避けるが、せめて君が良い環境で働けるよう、これからも彼の家に援助は続けよう」
「え? 声が小さくて聞きとれなかった。桜小路家がなに?」
「いや、大したことじゃあない。桜小路家は関係ない」
「なに。ここまで話して隠すことなんてないでしょ。言ってよ」
「しかし君が傷付くことにもなりかねない」
「『愛人になれ』以上に傷付く言葉もそうないって。ほら言いなさい」
「わかった。だがその前にこれだけは言っておこう。残念だ。俺はとても残念に思っている」
「ん? 大きな溜息までついて、どうしたの?」
「この後は君を部屋まで送り届けなければいけない。その苦労を考えると頭が痛い」
「だいぶ酔いも覚めてきたし、迷惑は掛けないつもりだけど」
「そうじゃあない。これを言えば君は怒るに違いない。だが俺に明かせという。事実を知った君と仲良く帰るのは俺にとって至難の業だ。その覚悟をした上で、隠していたことを打ち明ける」
「ずいぶん勿体つけるんだね。もしかして、抱えてるものを話す気になった?」
「俺の抱える事情よりも遥かに一大事だ。よく聞いてもらいたい。山吹、いいだろうか」
「うん、なに?」
「スカートの裾から、紫の下着が見えている――」


コメント
リンデとかもそうですけど、FDとかで良いので
『つり乙』〜『つり乙2』までのサブキャラ達にスポットを当てたFDとか出してほしいです、切実に。。。
  • 屑があああああアーーッッッ!
  • 2015/05/13 8:41 PM
>好きなだけ飲んで、どうぞ
白玉はホモ。はっきりわかんだね
  • 野良獣先輩
  • 2015/04/14 1:27 PM
せ、製品化は・・・製品化はまだですか!
  • お優しいお東様
  • 2014/09/20 7:45 PM
アフターの衣遠兄様と八千代さんの絡みも面白かったですね。
みんなキャラが魅力的で楽しかった
プレイし終えても熱が収まりません
  • nonon
  • 2014/04/17 6:28 PM
すんばらしい!
またしてもお優しい衣遠お兄様の株がおっぱい昇りです。マーベラス!

ところで、りそなルートでも語られていた
お兄様が物にしようとしている「別の女」とのエピソードは
次回のエイプリルフール企画『大蔵衣遠の華麗なる追憶』で
お目にかかれるんですよね(無茶ぶり
  • 美萩
  • 2014/03/08 11:30 PM
衣遠兄様達の話でもう一作出して欲しくなった。
キャラがみんな魅力的すぎるんよー
掘り下げが足りてないよー
乙女シリーズを看板としてこれからも出してくれー
  • nishikihebi
  • 2014/03/08 1:12 AM
アペンドディスクにもこの二人の絡みがありましたね!
(うるおぼえで間違ってたらごめんなさい)
このコンビ好きなので、もっと彼らの日常を見てみたいです〜!
  • ShinyMoon
  • 2014/03/05 7:19 PM
この二人が幸せになるファンディスクが見たい!
  • eclair
  • 2014/03/04 12:49 AM
衣遠兄様と八千代さんの好感度がグングンあがりました笑 この二人が仲良くしてるとほっこりします (&#3665;´&#9058;`&#3665;)
  • mosawa
  • 2014/03/03 12:45 PM








   
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